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熟年からの俳句入門
 熟年からの俳句入門
はじめのはじめに
 最近、俳句をはじめようとする方は、どちらかといえば熟年世代が多いようです。熟年という言葉も、私自身最初は抵抗がありましたが、なんとなく最近は定着してきましたから、それに従います。
 四十代、五十代以降六十代前半までを「熟年」というのでしょうか。
しかし「もう年だから」などと消極的にならずに、熟年からスタートを切るみなさんは幸せです。最近『老人力』という本がベストセラーになりましたが、年輪を重ねてから見えてくる、判ってくるものも多いのです。
●俳句にとって熟年が有利なこと
@人生経験の豊かな積み重ねがある。
Aものごとを深く把握できる。ものごとを多方面から考えられる。
B比較的自由な時間が取れる。時間の配分をコントロールできる。
C比較的経済的なゆとりがある。
その他いろいろ
●俳句にとって熟年が不利なこと
@記憶力、集中力に欠けてくる。
A固定観念に支配されがちになる。柔軟な考え方が出来なくなる。
その他少々
 ここで「熟年が不利」と書いたことは、実は俳句を真剣に学ぶと逆に有利に転化することが出来るのです。
俳句を学ぶことは、いろいろな人の句を読む、歳時記を読む、辞書をひくなど、普通の熟年ではしないことを繰り返しするこ
とになります。そのことによって、集中力や記憶力を喚起させるのです。
また、いろいろな俳句を読んだり、実作を重ねることによって、ものごとを柔軟に考える訓練がされます。俳句は類型、類想
を嫌いますから、いつも新鮮な考えが大切になります。
 つまり、「不利」と書いた点は、一般的にいわれる老化現象ですが、俳句を真剣に学ぶことによって、頭脳的な老化を防止
することにもなるのです。
よく「俳句をやっているひとは惚けない」などとも言われていますが、これは現代の科学によっても根拠づけられています。

中年や遠くみのれる夜の桃               西東 三鬼
Tはじめに
  俳句を作り始める動機は、ひとそれぞれによってさまざまでしょう。
  私たちの仲間は、新聞や区の広報で案内があったから、友人や知人から誘われた、職場の同僚や上司から誘われた、
  あるいは父母や家庭の影響などいろいろでしょう。
 いずれにせよ、その動機は一大決心をして俳句を作ろうというより、ちょっと面白そうだからとか、なんとなく文学に触れ
たいなどというものでしょう。
 日常のなかから心を動かされたもの、感動を書き留めておきたいという欲求はもっとも人間らしいものといえましょう。
 これを自己表現欲といってもいいかもしれません。
  どのような動機にせよ、最初に俳句を作ろう、俳句を勉強したいという気持ちを大切にしたいものです。俳句はとりわけ、
  「やさしく」「新鮮」な気持ちを大切にする文学だからです。
 俳句は<平明清新>が大切なのです。
 最初は、俳句をさあ作ろうとあまり身構えないで、平凡であろうとなかろうと、生の自分、感動の中心から出発することが大切です。
 俳句のことばは、普段使わない文語や雅語、漢語を使わないで、「普段着」のことばを使いましょう。やさしい普通のことばを使うと
いうことです。
 ひとによっては「ひらがなで書こう」などともいいます。難しい字を余り使わないことも初心の心得の一つです。
 頭の中で俳句らしく作ろうとすると、こんなことになります。
 「信濃路の旅を偲びて春炬燵」という句があるとします。
この「偲ぶ」は初心の方が好む言葉です。ふだん「偲ぶ」などといいませんね。「窓辺、水辺」「月影、花影」「小道」などもちょっと
しゃれているようで、いちばん陳腐な(古い)ことばなのです。
 「信濃路」の「路」ももったいぶったいいかたです。これはJRなどの観光ポスターの悪影響かもしれません。さらに「春炬燵」にいて
  「偲んでいる」ということなので、思い出だけで動きがなく具体的な姿が見えてきません。

 鰯雲小諸の旅をこころざす                飯田 蛇笏

 この句の場合は、「鰯雲」という単純な、しかも大きな姿を入れたことによって、景が大きく広がっています。俳句はこういうふうに
作りたいものです。
もうひとつは、いつも新鮮にと心がけることです。使い古されたことばは、人に感動を与えません。
 たとえば、黒い髪を表現するのに「みどりの黒髪」、「鴉の濡れ羽色」「漆黒」など、昔のひとはうまいことをいいましたが、それらを
真似しないことです。
 既成のじょうとう常套のフレーズ(常套句)を使わない心がけが大切なのです。

 名月の花かとばかりわた棉畠                    芭蕉

 「ふえき不易りゅうこう流行」を唱えた芭蕉の作品です。「不易」は変わらないもの。「流行」は新しいものです。この二つの「統一」を
  芭蕉はいっているのですが、「不易」はややもすると安住になってしまいます。芭蕉の生涯は絶えまない「流行」への挑戦と考えられます。

 風光る眉剃る音も河に出て                松田ひろむ

 もうひとつ大切なことは、「うぶ」な感性を大切にすることです。なにごとにも心を動かさないひとは、俳句に限らず芸術は語れません。
  もちろん、そんな石のようなひとはいないのですが、年齢を重ねるとややもすると、なにごとにも身構える姿勢が身についてきます。
  俳句では頭をいつまでも柔らかくということなのです。
 芭蕉も「俳諧はさんせき三尺の童にさせよ」、「初心の句こそたのもしけれ」(三冊子)といっています。
 これは童心に帰れという教えですが、いくつになっても素直に驚き、喜び、悲しむこと、その大切さをいっているのです。
U俳句とは
 俳句は世界でもっとも短い詩です。そのため、だれにでも親しめる、やさしく、しかも奥の深い文学です。 
 また句会などを通して励みあうため「座の文学」ともいわれています。
 俳句の約束ごとといえば、五、七、五の十七文字(音節)ということだけといちおう考えておいてください。
 季語(季題)は、俳句の働きを大きく効果的にする重要な役目を持っています。しかし無季俳句といって季語がなくてもいいという考えも
ありますが、まずは季語を生かして使うことからはじめたいものです。
 自由律俳句や口語俳句といって、五七五にとらわれない考えもありますが、これは五七五の俳句をしっかりと身につけてから自身で考えて
も遅くはないでしょう。
 まずは五七五と季語が大切と考えておきましょう。もうひとつ俳句にとって大切なものは、切れ(切字)です。
 最初に俳句は、五、七、五の十七文字といいましたが、この五、七、五はばらばらな五、七、五ではありません。ふつう五と七五、五七と
五というように二つになることが基本です。芭蕉も俳句(当時のことばでいえば発句)は、ふたつのものの「取合わせ」だといっています。
 この二つを分けるのが「切れ」(切字)なのです。
A 古池や +蛙飛び込む水の音                 芭蕉
A 菜の花や+月は東に日は西に                 蕪村
B 柿食へば鐘が鳴るなり+法隆寺             正岡 子規
B 金剛の露一粒や   +石の上             川端 茅舎
 以上の二つの基本をしっかりと身に付けましょう。
 その他に、一句一章といって最後に切れのある作品もあります。多くは「かな」「けり」や動詞の終止形で
切れます。これも「切れ」の一つです。
C 流れゆく大根の葉の早さかな              高浜 虚子
C 鶏頭の十四五本もありぬべし              正岡 子規
C 白妙の菊の枕を縫い上げし               杉田 久女
 俳句の切れは、この三つの形を基本にして、いろいろなバリエーションがあります。
A残雪や|ごうごうと吹く松の風              村上 鬼城
 葛咲くや|嬬恋村の字いくつ               石田 波郷
 広島や|卵食ふとき口開く                西東 三鬼
 高嶺星|蚕飼の村は寝しづまり              水原秋桜子
 芋の露|連山影を正しうす                飯田 蛇笏
 木の葉髪|文芸永く欺きぬ                中村草田男
 雪解川|名山けずる響きかな               前田 普羅
 梨咲くと|葛飾の野はとの曇り              水原秋桜子
B怒涛まで四五枚の田が|冬の旅              古沢 太穂
 ぜんまいののの字ばかりの|寂光土            川端 茅舎
 あえかなる薔薇選りをれば|春の雷            石田 波郷
Cからたちをわがしほさいの花とせし|           藤田 湘子

(変化)五七五の中間で切れる

 萬緑の中や|吾子の歯生え初むる             中村草田男 
 唇ほのと仏|芋の葉ごぼうの葉              古沢 太穂
 放生のふぐ現るや|日のゆらゆらと             古沢 太穂 

 このように俳句は一ケ所で切れているのです。
 切れるというのは、「切字」だけではなく、動詞の終止形、名詞も含まれるということを理解してください。
 切れのない俳句は、だらだらとしたものになるだけでなく、俳句にとって大切な余韻や飛躍がないことになります。
 先の例でいえば、西東三鬼の句は無季ですが、明確な切れがあります。俳句にとって「切れ」と「季語」とどちらが大切かといえば、
  大胆にいえば「切れ」だともいえるような句です。もちろん季語の重要性を否定するものではありません。季語については後に触れます。
V、俳句の素材
俳句の材料、それが素材です。俳句とは花や月など、きれいなものを、きれいに詠むことだと思っているひとはいないでしょうか。
もちろん、雪月花という伝統的なものにも、私たちの心は動きます。しかし、心を動かされるのはそれだけではありません。
私たちの日常の感動は人間関係から来るものが多いのです。恋や、結婚、出産、子供の成長や病気などなど。生活のあれこれ
にも感動はいっぱいあります。
感動といっても喜びだけではありません。苦しみ、悩み、悲しみも感動です。

 彼一語我一語秋深みかも                 高浜 虚子
 色足袋のみつ子みなし子湯女づとめ            高野 素十
 蛍火や疾風のごとき母の脈                石田 波郷
 雉子の眸のかうかうとして売られけり           加藤 楸邨
 地の涯に倖せありと来しが雪               細谷 源二 
 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す             西東 三鬼

 それぞれ、対象は人間です。
 虚子の句は、一語一語と重ねて秋への思いです。ここから小説的な世界を連想することも出来ますが、そこまで読む必要はないでしょう。
 素十の句は、戦前の句ですから、湯女は遊女的な存在の女性でしょう。「みつ子」と、どこにでもいる女性の名前が哀れを誘います。
  「色足袋」はいまではまったくといっていいほど見なくなった日常の足袋のようです。紺足袋かもしれません。
 楸邨の句は雉子のことを詠っているようですが、売られ行く哀しみの雉子に人間が重ねられていることを読み取って下さい。
  アメリカのフォークソング歌手ジョーン・バエズが売られてゆく牛に戦争に駆り出されてゆく青年を重ねている
「ドンナ・ドンナ」という歌がありましたが、それ以前に楸邨は同じことを俳句にしていました。
  加藤楸邨、石田波郷は中村草田男とともに「人間探求派」といわれたひとです。

 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ           金子 兜太
 法阻みつ寒遠つ夜も火焔土器               古沢 太穂

 これは戦後の句ですが、ここには明解な意志があります。この場合も具体的な姿が見えて、イメージをふくらませています。
  対象は人間から社会へと広がっています。
  女性の句では

 休暇はや白朝顔に雨斜め                 中村 汀女
 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてちまおか)     竹下しづの女
 足袋つぐやノラともならず教師妻             杉田 久女
 祭笛吹くとき男佳かりける                橋本多佳子

 など、中村汀女の句は台所俳句とも呼ばれましたが、家庭の主婦としての感慨が俳句のなかに新鮮に導入されてきた時代の作品です。
  汀女がやや古い女性とすれば久女は新しい女性の苦悩に生きたひとです。

 花衣脱ぐやまつわる紐いろいろ              杉田 久女

  でも判るように、この紐は単に着物の紐ではなく女を縛る紐なのです。久女は家庭と俳句の葛藤から優れた句を作ったのでした。
  女性は自然を詠っても、これまでの俳句とは一味ちがった作品を数多く作っています。

 鶏頭を三尺離れもの思ふ                 細見 綾子
 空澄めば飛んで来て咲くよ曼珠沙華            及川  貞

 俳句の素材とは、どこかに行かなければ作れないものものではないことが判っていただけたでしょうか。もちろん吟行といって、
  俳句のためにいろいろなところへ行くことも盛んです。
 私の日常の句では
 一月の溶接光が見えおとこ                  ひろむ
 「住専」よりは風邪熱二日三日の頭              ひろむ
 吟行の句では
 三等切符のひとりは母かもう梅か               ひろむ
 マレーダンスの指先は蘭咲くように              ひろむ 
 最初の「三頭切符」の句は長浜の鉄道博物館での作品。汽車に乗る人形がありましたが、三等切符の人物は
私の母のように思えたのでした。
  春早い梅ちらほらのときでした。

W 寄物陳思
  寄物陳思(きぶつちんし)とは「物に寄せて思いを陳(の)べる」ということです。俳句はなんといっても短い詩ですから、
思いや情をそのまま述べては、深みのある作品は出来ません。
 このため、俳句は「ものの言えない」、つまり、述べることが出来ない文学ともいわれています。ものの言えない文学で、
ものをいうために、いろいろ工夫が積み重ねられてきました。
 そのために古くからいわれているのが、「姿で表現する」ということです。
 姿で表現するということを、簡単にいえば「写生」ということも、これに含まれます。写生の大切さは正岡子規、高浜虚
子以降、たえず強調されてきました。

 大根を水くしゃくしゃにして洗う             高浜 虚子

 この場合の大根は畑から獲った大根を小川などで洗っているのでしょう。それを「水くしゃくしゃ」という具体的な言葉
で農の姿が見えてきます。

 滝の上に水現れて落ちにけり               後藤 夜半
 
 滝の上に水が「現れた」といっても、つぎつぎに流れ落ちる水の一瞬を切り取っているのです。あとは、ごうごうとした
滝音が響いてくるのです。
  これもみごとな写生です。

 秋風やかかと大きく戦後の主婦              赤城さかえ

 「かかと大きく」が独自に、しかも戦後の主婦を典型的にとらえた言葉です。ともすれば「写生」は些末なことになる傾
向がありますが、ものの本質を姿で掴むことが大切なのです。
  大岡信は、「寄物陳思」を、「景物の表現のうちに間接的に主観的抒情を含める行き方」として、以下を作例としていま
す。(『俳文学大辞典』)

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ             水原秋桜子
 冬の水一枝の影も欺かず                 中村草田男
 海に出て木枯帰るところなし               山口 誓子

 これらの句は、いずれも情を述べるための姿として「冬菊」や「冬の水」、「木枯」が鮮やかに見えています。 
 これらは、単に冬菊や冬の水を述べているわけでも、通俗的な寓意でもありません。俳句ならではの表現として味わって下
さい。
 大岡信は、「寄物陳思」を俳句表現の一つとしてとらえていますが、私は「寄物陳思」こそが俳句の本質の重要なひとつと
考えています。
 単なる写生にとどまらないで、姿を具体的に表現することによって、思いを形象的に伝達する方法が「寄物陳思」なのです。
  やや難しくいえば形象的認識にもとづいた形象的表現ということなのです。だからこそ形象的に伝達されるのです。
 ちなみに形象的にというのは、なにも俳句に限りません。すべての文学に共通することなのです。
「寄物陳思」の秀句を鑑賞してみましょう。

 夜桜やうらわかき月本郷に                石田 波郷

 うらわかき月が柔軟で新鮮な把握であり、姿と思いの接点です。

 血を喀いて眼玉の乾く油照り               石原 八束

「眼玉の乾く」が独自の把握です。
ところで、「寄物陳思」といっても、平凡な姿の把握では平凡な俳句にしかなりません。
 例えば「枯草や馬に噛まれし傷の跡」という句があるとしあます。これはかって、馬に噛まれた傷が、
枯草を見ると思い出されるという意味でしょう。 
しかしこれは「枯草」から「傷の跡」が容易に連想されます。これでは姿というより平凡な理になってし
まいます。(参照、藤田湘子『実作俳句入門』)

X、季語のこと
 俳句にとって「季語」は大きな役割を果たします。なぜなら季語は象徴となるイメージを与えてくれま
す。また時間と空間を大きく広げる役割を持っています。
 季語でなく「季題」という考えもあり、一方には季語は要らないという考えもあります。
  もともと俳句は俳諧の発句から来たもので、その発句には季語を入れるという約束がありました。だか
ら季語が必要だというのがいちおうの歴史的な意味です。
  しかし芭蕉の句にも季語のないものもあり、しかも現代の俳句は発句そのものではありません。季語を
否定した新興俳句もいくつかの秀句を残しています。
  ほうたい繃帯を巻かれ巨大な兵となる           渡辺 白泉
  白馬を少女よご?れて降りにけむ             西東 三鬼
  こうした新興俳句以後の実践によって「無季俳句」は一定の地位を確保しました。
  このように歴史的にも実際的にも俳句にとって季語は絶対的な条件ではないことは確かですが、ここで
は季語の大切さ、有用性を素直に認めて話をすすめます。
 五月の雨(この場合は旧暦)というより「五月雨」、夏の雨というより「夕立」、初冬の雨というより
「時雨」が、日本人の美意識を支えています。
  こうした季語を大切にしたいものです。
 象徴、時間と空間といいましたが、季語という共通認識のもとで俳句は大きく広がっていくのです。
 季語は一定の季節をあらわすだけではありません。実作に支えられた豊かなイメージの蓄積なのです。
 花といえば桜、月といえば秋となっているように、蓄積された日本人の美意識から一定の約束もあります。
 これらは「歳時記」にまとめられています。俳句を志すひとは携帯用でも結構ですから歳時記の一冊を持
つことが必要です。
 歳時記は春夏秋冬と新年に分かれ、さらに時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分けられています。
読むだけでも楽しいものです。
 春の季語から見てみましょう。
 時候
 春なれや満月上げし大藁家                川端 茅舎
 天文
 がうがうと春の雨ふる滝の中               原子 公平
 生活
 街の雨鶯餅がもう出たか                 富安 風生
 行事
 針供養子が子を連れて来てゐたる             安住  敦
 動物
 己が傷舐めて終りぬ猫の恋                清水 基吉
 植物
 中空にとまらんとする落花かな              中村 汀女
 では俳句を作るときに、どのような季語を使えばいいでしょうか。まずは眼前のものに素直になることです。
 目の前に梅が咲いていれば「梅」でいいでしょう。季節を感じたのなら「早春」、「冴え返る」、子猫がいたなら「猫の子」。
  身の回りにいっぱい季語があるでしょう。そのなかから自分の気持ちに合った季語を選べばいいのです。
 基本的に一句のなかに季語は一つと覚えていてください。季語がふたつ以上ことを「季重なり」といいます。ここで「基本的に」と
いいましたが、あくまで基本的にです。季重なりでもいい句はありますが、最初はどうしても季語が多くなりがちですので、まずは季
語は一つと考えていてください。

 以上第一回の講座は俳句を作るための必要最小限にしました。
  俳句は知識ではなく、創作ですから、まずは実際に俳句を作ってみましょう。俳句は紙と鉛筆があればいいのです。
  筆や色紙・短冊を使うことは好みの問題です。
 「やさしく、素直に」の気持ちで作りましょう。最初から名句を作ろうとすると既成の概念に囚われます。目の前のもの、自分の生活
のことからはじめることが大切です。