(C)2000・2002 松田ひろむ

なにげなく使っている季語・季題 その疑問点を探ります。

はじめに
 
もっとも俳人に身近な歳時記ですが、作句のための「辞書」として見ることが多いのではないでしょうか。ひとつひとつの季語を吟味して考えることは少ないように思います。
 俳句にとって大切な季語、そして歳時記、その意味をなるべく深く、しかもやさしく考えてみましょう。
 歳時記といえば、最近では現代俳句協会の『現代俳句歳時記』が、「太陽暦に基づく」として話題を呼びました。この「太陽暦に基づく」は、マスコミの話題も呼んでキャッチコピーとしては大成功しましたが、その中身に立ち入ると、日本人の季節感に関わることが多くいろいろと問題が多いようです。この季節の問題は暦にも関係して奥が深いものがあります。この「太陽暦」問題は、歳時記の根本にかかわることなのでいずれ改めて考えてみたいと思います。
 雄山閣の『新版・俳句歳時記』作りの現場からの報告として、季語のいくつかを探訪しましょう。

ページの目次
1 錦木(にしきぎ)2002.12.24up
2 茘枝(れいし)
3 春北風(はるならい)

1 錦木(にしきぎ) 
 二つの錦木
 ホームページの「季語探訪」も更新しないままになっていましたが、たまたまアメリカ在住のジャンボール絹子さんから、「錦木」の初出についてメールでの問合せがありました。ジャンボール絹子さんは、俳人として『俳諧師園女の生涯』(永田書房)があり、また『やさしい日本語入門』(HBJ出版局)を出版されている方です。現代俳句協会会員。

【錦木】(にしきぎ) 錦木紅葉

錦木(ニシキギ)は、秋の真っ赤な紅葉と実が割れて出てくる風情で親しまれている植物。山野にも自生するが庭木としても親しまれています。秋の季語。「錦木の花」は四〜五月ごろ開花しますが白い目立たない花です。このため錦木といえば秋という印象が強いのです。

『新版・俳句歳時記』(雄山閣)では、「ニシキギ科の落葉低木。秋の紅葉が美しいので庭木としても植えられている。高さ二〜三メートル。生け花の材料にもされる。果実も割れて黄赤色のつややかな種を現わし、紅葉の美しさに色を増す。枝にコルク状の翼(よく)が発達する。翼がないものは小真弓(コマユミ)という品種。同属に真弓(マユミ)がある。」と記載され、その記述自体はこれまでの歳時記を踏まえ間違いではありません。

 この季語の初出は『滑稽雑談』(正徳三年)で九月とされています。「一種、形色同じく、(せん)羽なきものあり雌木なりといへり」とあるといいます。(『図説俳句大歳時記』角川書店)

 『図説俳句大歳時記』には「錦木は朽ちてうらみの螢かな」(二柳)が例句として掲載されています。

 問題は二柳の句です。これは
錦木は立てながらこそ朽ちにけれ今日の細布胸あはじとや         能因法師『後拾遺集』
などを踏まえているものです。その大意は、錦木を立てたままで朽ちてしまったよ。今日の細布は胸が合わないだろうと思ってか。という恋の句です。この「細布」は奥羽地方特産の幅の狭い布で、細身の衣がうまく胸で合うと恋愛が成就するという俗信があったようです。

 同じく和歌には
ちつかまでたつる錦木いたづらにあはで朽ちなん名こそ惜しけれ
      藤原定家
立てそめてかへる心は錦木の千束(ちづか)まつべき心地こそせね  『山家集』
錦木は千束(ちづか)になりぬ今こそは人に知られぬ(ねや)の内見め  『俊頼髄脳』

 私が立てた錦木は千束になった。今こそは他人では知ることの出来ぬあなたの寝室の中を見たいものだ。
 いずれも「錦木―千束(ちつか・ちづか)―朽ちる」が、セットになっています。 これは、次のような伝承を踏まえているのです。
 錦木とは「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木。男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」(『大辞林』)
 ここから能の「錦木」が生れました。
 そのあらすじは狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、細布を持った女と錦木を持った男が現れる。その男はこの辺りの風習で、男性は好きな女性の家の門に錦木を作って立て、女性は逢おうと決めたらその錦木を家の中に入れ、逢うまいと思ったらそのままにしておくことを話す。そして三年間錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。亡霊の姿で現れた男は機を織る女の住まいに錦木を持っていく場面などを見せ、舞をまって朝方姿を消すというものです。
 これらは錦木伝説をもとにし、かなわぬ恋の悲しさを主旋律に、人の心の真っすぐな、つらぬき通す美しさを訴えかける古体の能といいます。
その錦木伝説とは次のようなものです。

【錦木塚伝説】(参考:鹿角市発行「鹿角市史」)
 今から千数百年前のこと、錦木のあたりを都から来た狭名大夫(さなのきみ)という人が治めていた。それから八代目の狭名大海(さなのおおみ)政子姫(まさこひめ)というたいそう美しい娘がいた。姫には狭布(京)の細布(狭布せばぬの)を織るのがとても上手であった。
そのころ、草木の里に錦木を売るのを仕事にしている若者がいた。ある日若者は赤森の市で政子姫を見て、心の底から好きになってしまった。毎日毎日、男は姫の門の前へ錦木を立てた。そのころは女の家の前へ錦木を置き、それを家の中へ取り入れるのが嫁に行っても良いという印とされていた。

若者は雨の降る日も風の吹く日も、雪の降る日も一日も休まず錦木を立てた。しかし錦木は一回も中へ入れられず、三年もの間ただ増えるばかりだった。政子姫は機織りのする手を休めてそっと男の姿を見るうちに、若者が好きになっていた。しかし二人は身分が違いすぎ、また次のようなわけもあった。

 五ノ宮嶽のてっぺんに大ワシが巣を作り、古川の里の方へ飛んできては子供たちをさらって行った。ある時、若い夫婦が我が子を失って泣いていると、みすぼらしい旅の僧がそれを聞いて、鳥の羽をまぜた布を織って着せれば、ワシは子どもをさらえなくなると教えてくれた。そういう布は、よほど機織りが上手でないと作れない。
そこで政子姫は皆から頼まれ、親の悲しみを自分のように思い、三年三月のあいだ観音に願をかけ身を清めて布を織っていたのである。そのため、嫁に行くという約束はできなかった。

 若者はそんなことは知らずに毎日せっせと錦木を立てていたが、あと一束で千束になるという日、体がすっかり弱っていたため門の前に降りつもった雪の中に倒れて死んでしまった。姫もその二、三日後、あとを追うように死んだ。姫の父は二人をたいそう哀れに思い、千束の錦木といっしょに一つの墓へ夫婦としてほうむった。その墓のことを錦木塚といっている。

「錦木塚」

「錦木」も「狭布」も秋田県鹿角市の地名です。 現鹿角市十和田錦木古川は、明治九年(1876)それまで古川村というところが錦木村となりました。近世には鹿角地方は「けふの狭布(せばぬの)の里」といわれ、悲恋の錦木伝説にかかわる錦木塚があります。世阿弥の作という能「錦木」は、この話を題材にしているといわれています。(『日本歴史地名5 秋田県の地名』平凡社)このように錦木といえば、恋、朽ちる、ということになります。



芭蕉にも酒田での俳諧の付句に

錦木を作りて古き戀を見ん                 芭蕉
 があります。

「錦木」は錦木ではない

 錦木にまつわる和歌や能、伝承をいろいろと述べたのは、これらに書かれている錦木は、私たちの思っている錦木ではないからです。
それは前出の『大辞林』にも「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木。男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」とあるように、これは錦木ではありません。
 『広辞苑第五版』でも「五色に彩った三十センチメートルばかりの木片。昔の奥州の風習で男が女に逢おうとする場合に、女の家の門に立てて、女に応ずる心があればそれを取り入れ、取り入れなければ男がさらに加え立てて千束を限りとすると云う。」とあります。
 では、錦木は『大辞林』や『広辞苑』のような、彩った三十センチほどの木のことでしょうか。それはあることの結果から来た風習のようです。
 もともと鹿角辺りにおいては、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていました。それが狭布なのです。その染めに使うのは、錦織木(にしきおりぎ)つまりニシキギ(錦木)なのです。われわれが現在「錦木」と読んでいるニシキギ科の錦木は染物とは関係ありません。
歌枕の錦木はハイノキ科の植物で「サワフタギ」と考えられています。ハイノキ科の植物は灰を染色に用いる種が多く、ハイノキやクロバイなどのように、「灰」や染色に絡んだ名前が付いています。
 このサワフタギ、つまり錦織木は、深山のそれも険しい沢筋でなければ生えていません。老齢者や子女では錦織木の採取は不可能なのです。そこで若者が採って来た錦織木を必要としたのです。つまり若者を婿に迎え、錦織木を採らせる必要があったのです。毎日、錦木を持っていってわけはそのためです。これは妻訪い婚の形態とも合致しています。
したがって歌枕の「錦木」とはハイノキ科のサワフタギと結論付けられます。
秋田県「鹿角(一部岩手県なども含む)」の特産品として、奈良・平安時代の頃から紫根染織物や砂金などが都に知られていました。
 そのため陸奥の奥地にも拘わらず貴族達の荘園として経営されていたものと思われます。荘園「鹿角の郷」はそのため、「京の里」(狭布つまり「けふ」と暗合します)とも呼ばれ、貴族間で時々譲渡が行われていました。譲渡の度に荘園を直接管理するため、都より責任者が派遣された。その一人が「錦木塚伝説」に語られる政子姫の親であったと考えることができます。その姫と身分の低い若者との恋は遂に実らなかったのです。だから千束が朽ちたのです。
この悲恋物語はこのような荘園経営のため時を経ずして都中に広まったものと考えられるのです。

【サワフタギ】Symplocos chinensis var. leucocarpa forma pilosa(ハイノキ科 ハイノキ属)
サワフタギは名前のように細い山間渓流を上から覆うように生育しています。このほか湿地の周辺や明るい二次林中のやや湿った場所に林床に広く分布。北海道中部から九州に分布し、朝鮮・中国にも分布する落葉低木で、高さ5mほどになる。葉はつやがなく、縁には細鋸歯がある。花は四〜五月頃に咲き、白色。秋には果実があざやかなルリ色となり美しい。

サワフタギの花(6月)

サワフタギの花(6月)

サワフタギの果実はルリ色

 『図説俳句大歳時記』(角川書店)は、『和漢三才図会』(正徳三年)の「古歌にいはゆる錦木は、これと同じからず。その錦木は奥州にあり」を引用しているものの、解説はニシキギ(ニシキギ科)に触れているだけです。

錦木の俳句

 サワフタギの錦木を詠んだものは、やはり二柳の句と芭蕉の付句だけです。

錦木は朽ちてうらみの螢かな 二柳(『図説俳句大歳時記』角川書店)

 二柳の句を『図説俳句大歳時記』が、ニシキギ科の錦木の例句としているのは、明らかな誤りです。


















ではいつから「錦木」はハイノキ科のサワフタギから、ニシキギ科の錦木になったのでしょうか。これはまだ疑問のままです。少なくとも江戸期においては二柳や芭蕉の句からみても、歌枕の錦木であったことは間違いありません。大胆に推理すれば虚子の昭和九年『新歳時記』あたりとも考えられます。これは今後調べる必要があります。

ニシキギ科の錦木は、その華やかさに比較すると、例句は非常に少ないと思います。
虚子の冒頭の句は各種歳時記に必ずといっていいほど掲載されています。「我ゆかし」といってしまっては虚子の句として凡作といわざるを得ません。

錦木に寄りそひ立てば我ゆかし
 高浜 虚子(「句日記」)

錦木の実もそのへんも真っ赤かな 高浜 虚子(辻桃子編『実用俳句歳時記』成美堂出版)
錦木や遍路がわたる露の川    岸 秋渓子(「雲母」)
袖ふれて錦木紅葉こぼれけり  富安 風生(「草木花歳時記 秋」朝日新聞社)
いまはまだ錦木の実の赤さのみ  富安 風生(『冬霞』
錦木のもの古びたる紅葉かな   後藤 夜半(『青き獅子』)
われ稀に来て錦木を立去らず   後藤 夜半(『現代俳句歳時記辞典』北辰堂)
錦木の田上げの鯉の水しぶき   飯田 龍太(「草木花歳時記 秋」朝日新聞社)
錦木や野仏も夜を経たまいぬ   森  澄雄
(『現代俳句歳時記辞典』北辰堂)
湯疲れの眼に錦木の距離保つ   河野多希女(「草木花歳時記 秋」朝日新聞社)
錦木の闇にまぎれて了ひたる   倉田 紘文(「草木花歳時記 秋」朝日新聞社)
深寝して錦木紅葉きはまりぬ   加藤三七子(「新版俳句歳時記」雄山閣出版)
錦木の赤点々とちひろの絵    白石みずき(「新版俳句歳時記」雄山閣出版)
錦木の紅葉日増に色まさり    藤田大五郎(「ホトトギス新歳時記」三省堂)
錦木や鳥語いよいよ滑らかに   福永 耕二(『カラー図説日本大歳時記』講談社)
紗のごとく錦木に夜が及ぶべし  矢島 房利(『合本俳句歳時記第三版』角川書店)
くれなゐの錦木越しの桜島    大高 弘達(『合本俳句歳時記第三版』角川書店)
錦木や砂掘りて湧く水屋敷    廣瀬 釣仙(『合本俳句歳時記第三版』角川書店)
雨籠めの御苑錦木もみぢかな   川口 未来(辻桃子編『実用俳句歳時記』成美堂出版)
紅葉せる錦木を折り山を越す   前田普羅(『新日本大歳時記』)
錦木や羽音きしきし母屋より   廣瀬直人(『新日本大歳時記』)
後ろより錦木山に呼ばわるる   松田ひろむ(「鴎」199012月)
 例によって赤いは「炎える」「燃える」という句もあります。
錦木の炎えつくしたる色と見し  藤井 扇女(「ホトトギス新歳時記」三省堂)
錦木の垣の燃えどき人住まず   古賀まり子

(『現代俳句歳時記辞典』北辰堂)

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2 茘枝
 茘枝とは、ライチのこと?それとも苦瓜のこと?
 
  茘枝といわれて、どんなものを思い起こすのだろうか。何人かのひとに聞いてみたが、十人が十人とも「ああ、あの楊貴妃が好きだったという、剥くと白い実ですよね」という答えが返ってきた。
これは当然でもあるが、ほとんどの歳時記に「茘枝」と出ているのは、植物名ツルレイシ(蔓茘枝)、普通には苦瓜と呼ばれるものである。楊貴妃の好きだったという茘枝ではないのだ。
このツルレイシは、ウリ科の観賞用の植物あるいは野菜としても用いられるものである。沖縄などで食べるゴーヤチャンプルは苦瓜の炒め物である。ゴーヤは沖縄方言で苦瓜のことだ。
ところがこれまでの歳時記では、ムクロジ科の果実の茘枝(ライチー)との違いを明確にするものは少なかった。

茘枝(ライチー)は、現在は台湾やタイから輸入される冷凍果実であるので、季語にはならない。本来は赤い実なのだが、われわれが見るのは冷凍されて茶色に変色したものだ。このため、どの歳時記でも「ライチーの茘枝」は季語としては採用されていない。
楊貴妃が好み広州から長安まで運ばせたという話はあまりにも有名だが、その出典を今回ついに見つけることは出来なかった。白楽天の「長恨歌」に出てくるのではないかと、思って調べたが出てこなかった。
伝承なら伝承でいいのだが、どうも楊貴妃の好物であったかどうかより、硬い皮を剥いて出てくる、つるっとした白いゼリー状の果実が、楊貴妃の肌の白さに重ねられているように思えるのだ。
ライチーは今日では果物屋の店頭に多く見られるようになり、また海外旅行などで目に触れることも多い。
 雄山閣の「歳時記」の場合、「茘枝」を見出し季語にすることは、苦瓜とライチーとの混同を助長するので、見出し季語を「茘枝」から「苦瓜」に変更し、傍題に「茘枝・蔓茘枝・錦茘枝」と変更することとしている。
 この茘枝問題はひとごとではない。私もこれまで茘枝はライチーのことと考えて、苦瓜を茘枝と呼ぶことに心がおよばなかった。そのため中国の旅行でライチーを食べて作った

茘枝ほど瞳の動く趙夫人       松田ひろむ

が、現代俳句協会の『現代俳句歳時記』に「茘枝」の例句として掲載されている。同歳時記の例句の 

茘枝剥く無骨な指も愛しおり     下山田禮子

も「剥く」とあるところから、ライチーのことを詠んでいるものと思われる。また、

 茘枝食べ余生に備えなどあらず     山岡桑史
(講談社『新日本大歳時記』)

は、貧しい暮らしを詠んで苦瓜のこととも考えられるが、逆に解釈して余生の備えも考えないで食べたということは、苦瓜のこととするとやや大袈裟に過ぎるかもしれない。輸入果実のライチーなら納得できるように思う。
 ちなみに「レイシ」をインターネット上で検索すると、「苦瓜」「ライチー」のいずれもが「レイシ」として出てくるので、この混用は今後もつづくと思われる。
 そこで雄山閣の「歳時記」では次のような解説となる予定である。
 

苦瓜(にがうり)    茘枝(れいし)・蔓茘枝(つるれいし)・錦茘枝(にしきれいし)
 
江戸時代に中国から渡来したウリ科のつる性一年草。観賞用として栽培されるが、九州・沖縄では未熟な実を炒め物などにする。沖縄料理のゴーヤチャンプルは著名。皮に苦味があるので苦瓜と呼ばれる。果実は長円筒形になり、表面に小さいこぶ状の突起がある。熟した実は自然に裂けて紅肉と種子が現われる。甘くておいしい。
楊貴妃が好んだといわれる茘枝はライチーのこと。ムクロジ科の倒卵形で直径二〜三センチぐらいの鮮やかな紅色の果実。皮は硬いが剥きやすく、果肉は白いゼリー状で芳香があり生食する。台湾・タイより冷凍果実として輸入される。苦瓜(蔓茘枝)とは別のもの。

例句として、苦瓜を「正しく」詠んだもので、これまでの「歳時記」にあるものは、
苦瓜
苦瓜も真黄に秋をつくしをり     百合山羽公
還らざる島苦瓜の汁ねばり      沢木 欣一
苦瓜を噛んでよな火山灰降る夜なりけり  草間 時彦
苦瓜といふ苦そうな固さうな     品田 秀風
苦瓜や昼酒の量むづかしく      斎藤 徳治
苦瓜の疣々過去を悔ゆるまじ     澤村 秀子
苦瓜といひしばらくは凝視せり    大室 美江
苦瓜のやみつきになる苦さかな    森  保子  
苦瓜や訛大事に妻肥えよ       齋藤 隆顕
苦瓜という悶々のうすみどり     坂巻 純子
苦瓜をさくさく食むも島の性     瀬底 月城
薄く切る苦瓜の香や海遠し      水野真由美
苦瓜を化粧品屋が置いてゆく     あべまさる

茘枝
沖縄の壷より茘枝もろく裂け    長谷川かな女
茘枝裂けて肉漿むしろ凄じく     川端 龍子
あまたるき口を開いて茘枝かな    皿井 旭川
茘枝熟れ萩咲き時は過ぎゆくも    加藤 楸邨
ご赦免の日まで禁酒ぞ茘枝の実    角川 源義
茘枝棚かたむき紅の種こぼす     鐘江 艶女
躊躇はず茘枝を食うべ山育ち     藤原 涼下
ほのぼのと雌黄染め出す茘枝かな   坂井 塵外
茘枝の実はじけて夢二生家かな    河野 照子
実をひそめ雨晴れてゐし茘枝棚    八木林之介
茘枝裂け魔除のごとく下がりけり   宮川杵名男
茘枝熟れ乙女も熟れて島を発つ    前西 一尾
ひめゆりの塔持つ島や茘枝の実    大井 恒行
禁断の茘枝たわわに捕虜の島     田中 信克
牙生えてきそうな甘さ茘枝噛む    牧  冬流
蔓茘枝
いつしかに割けて風生む蔓茘枝    中村奈美子
今もって島津はかたき蔓茘枝     布施伊夜子

 こうしてみると「茘枝」がやや優勢だが、最近の作品は「苦瓜」が多くなっている。今後は苦瓜が増えて行くものと思われる。
作品は沖縄や鹿児島あるいは島のイメージが重ねられているものが多い。
苦瓜の皮は「苦い」「固い」、実は「甘い」「裂ける」「割れる」ものであることが例句からも判る。逆にいえばそうした常識を述べないことが、今後の作句上のポイントであろうか。
「茘枝」の季語としての初出は、『圖説・俳句大歳時記・秋』(角川書店)によれば、正徳三年(一七一三年)。以下次のようになっている。「蔓茘枝(錦茘枝)」として正徳三年『滑稽雑談』、明和七年(一七七〇)『俳諧小づち』、『改正月令博物筌』文化五年(一八〇八)。この『改正月令博物筌』はさらに「つるれいし・にがうり」「苦瓜・癩葡萄・錦茘支」とあり詳しい。
 これを「茘枝」(「茘支」として)のみで出し、今日の混乱の元になったのは延享二年前(一七四五前)の『清鉋』に始まる。
 そして昭和になって、虚子編ホトトギス『新歳時記』も、「茘枝」を見出し季語にあげ、ここに見出し季語としての「茘枝」が定着することとなった。

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3 春北風
 春北風と書くのが正しいの?

 「鴎会報」で、私は春ならいを「春西風」としましたが、次号で「春北風」と訂正しました。
 これは、いずれも「ならい」が、私の使っているワープロ辞書では「西風」になっていたためでした。
 このため「ならい」とはなにかに、興味を持ち調べて見ました。 なお、『日本大歳時記』では「ならい」に「北風」を当てています。
 一般の辞書では「三陸から熊野にかけての漁夫ことば、冬の強い風。風向きは地形によって異なる」とされています。もともと「ならい」とは、山並みと同じ方向に吹いてくる風のこととで、「なら」は並ぶと同じといいます。
 したがって『大歳時記』の解説では「ならいは東京付近では北西の風。茨城県では北東風を「筑波ならい」、真北風を「北ならい」。伊豆諸島では北東風を「下総ならい」、真北風を「本ならい」と呼ぶとしています。
 つまり「ならい」は即、北風という意味はありません。したがって国語辞書では「ならい」に漢字を当てていません。
 ところで、「ならい」に詳細な解説がある『日本大歳時記』で、こんどは「春北風」を見ると、「(春)一時的に冬型の気圧配置に戻るのである。特に北国ではさるさむ春寒の北西風が雪をともなって吹き荒れる。北国の人々には春の遅いことを身にしみて感じさせられる風でもある」(三谷いちろ)となっています。
ここでも「北西風」となっていて「北風」ではありません。もうひとつ、この記述で気になるのは、「北国の人々」といっていますが、この北国のイメージがはっきりしません。
 なんとなく北国というと私には日本海岸、特に新潟から東北・北海道を連想しますが、どうやら「ならい」は「太平洋岸」の言葉のようですので、実作的には「日本海岸」で使うことは避けるべきでしょう。
例句では、飯田蛇笏の句が、甲州という位置がはっきりしていて、ここでも「春北風」という季語が使われていたことがわかります。
 
山に住み時をはかなむ春北風   飯田蛇笏
 空罐の日を切りかへす春北風   上村占魚 
 太陽にしろがねの環春北風    森 澄雄


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